アドブロック戦争の行く末を考える(2)
そもそもネット広告は野放図すぎる?
アドブロックの問題を考える前に、まずブロックの対象であるネット広告について考えなければならない。
我々が普通にウェブブラウジングしている時、広告は自然と目に入ってくるものである。
検索エンジンを使うと出てくるリスティング広告、大手サイトを見るとバナー広告、個人のブログを見れば楽天やamazonのアフィリエイトの広告etc...。当たり前のように我々は大量の広告を閲覧している。
ネット以外で我々が広告を見る機会として代表的なのはテレビだろう。テレビCMは日本の広告費全体の3割程度を占めている。*1
テレビ広告とネット広告を比較した時、あまりにもネットの広告は野放図すぎではないだろうか?
テレビにおいて、企業は問題がある番組のスポンサーをすることによるイメージの低下を恐れる。見る側にも、スポンサー企業は番組に対しある種の責任を持つという認識がある。
テレビドラマ「明日、ママがいない」の内容が問題となり、スポンサー全社が提供のクレジット表示を自粛したことは記憶に新しい。
視聴者側も以前の花王、最近ではDHCなど問題があるとされる番組のスポンサーをした企業に対し、不買運動を起こすことで抗議している。
対してネットはどうか。
有名な上場企業の広告が、問題のある*2サイトに載っているのを見たことがある人も多いのではないか。
例えば2ちゃんねるまとめブログは書き込みの著作権が現状微妙である*3が、そこへ広告を出すことに対するコンプライアンス上の問題、そしてイメージの低下はないのだろうか。
しかし我々広告を見る側も、ネット広告の場合は大きな問題と感じていないように思える。
この違いは一体なぜなのだろう。
問題のあるサイト←広告業者←広告元の企業という流れで、直接企業が広告を出してい訳ではないからだろうか?
ネット広告の場合ターゲッティングにより、人によって見る広告が違う為、抗議する人々に集まりようが無いからだろうか? これは結構あるかもしれない。
それともテレビは公共の電波だからか?ではネットには公共性はないのだろうか。
結局企業側の考えは「テレビはテレビ、ネットはネット」という事なんだろうし、それを受け手側である我々も現状受け入れてしまっているが、冷静に考えるとおかしくないか?と僕は思う。
ネットは自由なもの、アングラな部分を含むもの、という世間の風潮を免罪符にしてしまっているような気がするのである。